樹滴

四六判/上製/本文285頁
装丁=高林昭太
発行日:2012/7/15
定価:2000円+税
ISBN978-4-88032-401-2

後藤みな子著

後藤みな子(ごとう・みなこ)プロフィール

1936(昭11)年10月28日、長崎生まれ。活水女子短大英文科卒。45年、父の出征中、母と福岡に疎開していたが、母は原爆投下直後の長崎に勤労動員中の兄を捜しに行き、その死をみとり精神を病むことになる。 出版社勤務のかたわら同人誌「層」に参加、作品を発表しはじめる。71年被爆体験から脱け出ることのできない人々の姿を描いた「刻を曳く」(第8回文藝賞受賞、第66回芥川賞候補作)で注目される。他の作品に、「三本の釘の重さ」(第67回芥川賞候補作)、「炭塵のふる町」など。

オビ

あの遠い夏の日、
声なき死者たちへの鎮魂歌
長崎への原爆投下による兄の死の衝撃で、母は精神を奪われ、崩壊してゆく家族。〈深手を負った獣〉のような母への愛憎、医師として出世の階段を上った父との葛藤の中で、封印した家族の〈戦後〉に向き合い、樹の滴にも似た生命のありようを問う魂の物語。『刻を曳く』(文藝賞)の作家が四年の歳月をかけて紡いだ奇蹟の文学。

カバー裏のオビ(本文「連作五」から一部抜粋)

父は樹滴で覆われた樹のように死んだ。思いがけない死のようにも、用意された死のよう にも思えた。戦時中、父が歩いたニューギニアの原始林の樹々も、原爆で焼かれて再び甦った浦上の樹々も、いつかはこの父のように死ぬのだろうかと香子は思った。

書評より(「西日本新聞」)2012年7月31日号、「西日本文学展望」から抜粋)

書かねばならない意思 文・長野秀樹
後藤みな子さん『樹滴』(深夜叢書社刊)は「すとろんぼり」(福岡県久留米市)創刊号から連載された香子を主人公とする連作を一本にまとめたもので、冒頭は香子の父が手術を受けようとする場面である。父は患者として手術を受ける長崎の大学病院の、かつては教授だった。香子の兄が被爆死し、母がそのショックから精神を病んだ時、南方へ出征していた父は、復員後は医者として出世の階段を上り、学部長、さらには学長になった。原爆をきっかけに、それぞれがそれぞれの運命を受け入れて、崩壊せざるを得なかった家族の中で、香子はいわば取り残されて生きてきた。父の死を一つのきっかけに、長崎原爆を始まりとする、家族の戦後が再び語られていく。
 後藤さんには「文藝賞」を受賞し、はぼ同じ題材を作品化した『刻を曳く』(河出書房新社)がすでにあるが、戦後の長い時代を経ても、書かねばならない題材、書くべきテーマが、やはりそこにあるのだと思う。そうした題材を見つめ続けることの苦しさを乗り越えて、書かねばならないという意志が、緊密な文体を生みだしている。

書評より(「西日本新聞」2012年8月8日号から抜粋)

空白を埋めるように40年ぶりの小説文・大矢和世
 (冒頭略)
「全部捨ててきた」と後藤さんは言う。短編を5作書いた後、東京を離れて北九州市に移り住んだ。故郷の長崎市には帰らなかった。小説の内容をすべて事実と受け止められ、周囲との間に摩擦が起きた。単に「原爆文学」とくくられることにも抵抗した。「原爆に心を侵された母の仇を討つつもりで小説を書いたのに、自分が敗れてしまった」。
北九州で再婚し、娘を産み育て、放送局の仕事にも携わった。芸に生きた女性の聞き書きをしてノンフィクション『女芸人聞書』(81年、潮出版社)を出したが、小説は書かなかった。「書くことを、一瞬も忘れたことはなかったけれど」。やがて、父をみとり、母を送った。中央とのつながり、仇討ちの思い、摩擦、反発…すべて流れ去り、凪いだ時間が訪れたとき、後藤さんの胸に「原爆に心を侵食されて生きてきた、私の家族を書きたい」という思いが帰ってきた。2006年、文芸評論家松原新一さんらと共に同人誌「すとろんぼり」を創刊したのを機に、4年間にわたって連作「樹滴」を書き続けた。
大学病院で出世の道を歩み、学長まで務めた父は、長患いの床にある。娘の香子は週末ごとに通い詰め、父の病室で寝泊まりする。死んだ兄、遠い村で療養を続ける母のこと-父はなお多くを語らない。ただ手術で父が声を失ってから、香子との間で、少しずつ筆談のメモが交わされる。
やせ衰えていく父の姿。そして香子が長い間直視できずにいる、母の顔。老いた父母はゆっくりと最期へ向かっている。看病の日々に香子の思索は、原爆後の廃虚、幼い自分、東京での生活へと往来する。焼け跡の木の裂け目にほんの数粒にじみ出た「樹滴」。平凡で温かな家庭を望んでいたはずの父が、出世へとひた走ったのは、樹滴に生命の噴出を見たからではないか。香子はそう考え始める。
「刻を曳く」では心に傷を負い「母」ではなくなった「母」を前に、「私」は9歳の少女から瞬時に大人にならざるを得なかった。その埋められない空白を、無言の父にぶつけても、答えは返らない。『樹滴』の香子は、父や母、友人、かつての恋人らと向き合う場面、交わした言葉を反すうし、こわばった空白を埋めようとしていく。小説を書いた時間、書かなかった時間。父が見ていたはずの風景。母の心を凍結させたままの原爆。それは死者たちとの交感であり、空白の手触りを自ら確かめようとするような、問いかけの過程でもある。
書き終えた時、「この父、この母でなければ、小説を書くこともなかった」という思いが後藤さんの胸にわいた。「刻を曳く」のときにはなかった、感謝の念だった。「本を出せたことを、祝う気持ちはない。自分をそっと、一つ上に持ち上げてくれた。そんな気がしています」

昨年の震災、そして原発事故が起きたとき、とっさに思い起こしたのは母のことだった。「目に見えない被ばくのこわさ。また現実になってしまった」。“こわさ”がいつの間にか“絶対安全”に塗り込められていた。なぜ、時代を超えて伝わらなかったのか、と。
原爆を「語る」言葉はないと後藤さんは言う。父とも、幼なじみとも、核心に踏み込むようなことは何も語り合えなかった。でもその代わり「文学は残る。伝わる」と信じている。「志賀直哉に太宰治・・・今読んでも届く。記録でも講演でもエッセーでもなく、世代を超えるのは文学の力。伝えるために、その力を鍛えて、挑戦する」
今、後藤さんは「すとろんぼり」に新たな小説「高円寺へ」を連載している。東京で、離婚し新たな生活に踏み出そうとする女性の脳裏に、原爆で壊れた家族の影が立ちのぼる。語れなかった「核心」に向かって、幾度も文学の言葉を重ねる。精錬を続けて強度を増していくように。

書評より(「毎日新聞」2012年8月29日号、「文芸時評」から抜粋)

人生の傷から滴るもの――三十年を経て現れた作品田中和生(文芸評論家)
現在の文芸ジャーナリズムは強い個性をもつ作者に大量の作品を書くことを要求し、それに応えられる者だけが華々しい活躍をしているように見えるが、しかしそのような「活躍」とは無縁の場所でも読まれるべきすぐれた作品は書かれている。一九七一年に文芸賞を受賞し、以後幾度か芥川賞候補にもなった後藤みな子が、三十年以上の沈黙をへて刊行した長篇『樹滴』(深夜叢書社)がそうである。
長崎生まれで七十代になる作者は、故郷に原子爆弾が落とされた日からはじまる傷つい た人々の生を、丹念に言葉に換えていく。
(中略)
そうしてそこには半世紀におよぶ原爆後の時間が浮かび上がるが、それを紡ぐとりとめ のないようにも見える言葉を強く結びつけているのは、父が廃墟で見たという焼け焦げた樹(き)から滴っていた樹液のイメージだ。作者は原爆によってその生に亀裂の入った人々が滴らせるものを掬いとるように書きつける。その「樹滴」は死にゆく父の生を、次いで亡くなる母の生を、さらにはそのふたりを見送った「香子」の生をありありと映し出す。人が原爆の傷を引き受けて生きうることを示す、祈りに満ちた叙事詩のような作品だ。

インタビュー記事(「朝日新聞」2012年9月23日号、「著者に会いたい」から)

阿修羅になって書いた鎮魂歌 文・白石明彦
(冒頭略)
樹滴という題名は、ニューギニアから復員した父が廃虚の長崎で、焼けこげた樹から、未来の光のようにしたたる樹液を見た話にちなむ。母の無念をはらそうと、1971年に初めて書いた小説「刻(とき)を曳(ひ)く」で文芸賞を受け、芥川賞候補になった。しかし事実と虚構がまじる私(わたくし)小説は誤解されやすい。家族の恥をさらす親不孝ととる人もいて、父とは一時疎遠になった。東京で書いた小説は5編。74年に北九州へ移ってから、小説の筆を30年近く絶つ。
長崎大学学長などを務めた父敏郎さんが93年に、母も回復しないまま98年に療養先で亡くなり、呪縛から解放されたように書きはじめる。
「文学の力は恐ろしく深い。私は結局離れられません。『樹滴』は、阿修羅になって書きました」
母殺しの深層心理がある、と文学研究者に指摘されたことがある。
「本当に、心のなかで母を殺しながら生きてきました。自分の娘にさえ、母はとうに亡くなった、と長く隠していましたし。大きな罪です」
67年前のあの刻を、いまも重く曳きながら生きている。

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