漆の歴史〈詩歌句集〉

漆の歴史

菊判・上製カバー装
発行日:2024/7/29
本文366頁
装幀=高林昭太
定価:4200円+税
ISBN978-4-88032-505-7
C0092

室井光広著

室井光広(むろい・みつひろ)プロフィール

小説家・文芸評論家。1955年1月、南会津生まれ。2019年9月、死去(享年64)。
早稲田大学政治経済学部中退、慶應義塾大学文学部哲学科卒業。1988年、ボルヘス論「零の力」で群像新人文学賞受賞。94年、「おどるでく」で第111回芥川賞受賞。2012年、文芸雑誌「てんでんこ」を創刊し第12号まで刊行。
小説に、『猫又拾遺』(1994年、立風書房)、『おどるでく』(94年)『あとは野となれ』(97年、ともに講談社)、『そして考』(94年、文藝春秋)、『おどるでく 猫又伝奇集』(中公文庫、2023年)、『エセ物語』(法政大学出版局、23年)。
文芸評論に、『零の力』(96年)『キルケゴールとアンデルセン』(2000年、ともに講談社)、『カフカ入門――世界文学依存症』(07年)『ドン・キホーテ讃歌――世界文学練習帖』(08年、ともに東海大学出版会)、『プルースト逍遥――世界文学シュンポシオン』(09年、五柳書院)、『柳田国男の話』(14年、東海教育研究所)、『わらしべ集』(全2冊、16年、深夜叢書社)、『多和田葉子ノート』『詩記列伝序説』(20年、ともに双子のライオン堂出版部)。
エッセー集に、『縄文の記憶』(1996年、紀伊國屋書店)。
訳書に、シェイマス・ヒーニー著『プリオキュペイションズ――散文選集1968-1978』(佐藤亨と共訳、2000年、国文社)などがある。

オビ(表)

「わたしはかつて、一本のウルシの木であり、かつ、それに創(キズ)をつけ
詩の樹液を採集するウルシ搔き職人であった」―― 詩・批評・小説の三位一体を実践した作家の原点というべき渾身の詩歌句集

詩183篇、短歌682首、俳句1105句
   若き室井光広が編んだ
  私家版韻文集を初めて公刊

(注:著者は1988年に私家限定版を2部のみ作成し、今回「初めての公刊」となる)

オビ(裏)

「モノカキを志向するモノ心がついた時、私の中には幾人かの同人がいた。創作する男すなわち〝作男〟が文芸ジャンルを代表する数ほどに増え、互いに対話してやまなかったのだ。 創作畑は大きく韻文(詩・短歌・俳句)と散文(批評・小説)に分かれ た。棟割長屋状の作男部屋を詩人・歌人・俳人・批評家・小説家が棲み分け、作業を競い合う年月が少なくとも十年はつづいただろう。」
              (本書付録 室井光広筆「オッキリのように」より抄出)

目 次

(私家限定版に19ページ分掲載の「序文」「序詩」などの目次項目を下記では割愛)
第一部(詩の部183篇)
 第一篇 詩魂と石魂――詩魂としての石魂を賽の河原に積みあげる私であった……
 第二篇 誌っ神かぶれ――原(ウル)詩にさわると初心者はまけてシッシンカブレと
     なりやすいので、ご注意ください。このすぐれて〈アジア的なもの〉を用いて
     「日用品」ともなりうる「精巧な工芸品」創造への道を志す人は、免疫ができ
     るまで「まけつづける」歳月を覚悟しなくてはなりません。
第二部(短歌の部682首)
 狂言綺語抄
第三部(俳句の部1105句)
 第一篇 俳風空虚多留
 第二篇 狂歌書
後記
 一九九八年十月の跋
 アイリッシュ詩註ふうに
解題「円環の完結」橋口陽子

解 題(抄出)                  「円環の完結」橋口陽子

「最初の著書が1988年の『漆の歴史』であったこと、それが手作りの限定2部であったことは、室井光広のひそやかな誇りであり、喜びでした。
『漆の歴史』というタイトルでまとめた生原稿を大きな紙袋に詰め込んで、当時の住まいから歩いて行けるところにあったと思われる深夜叢書社に出向いたこと、たちまち思い直して引き取りに行き、喫茶店で齋藤愼爾さんと対座したことについて、やりとりの詳細はもはや再現できませんが、持ち帰った原稿の山を前にして、これをワープロで一冊の書物にすると決めたときに、文学を生きる覚悟、それを自らに宣言するような気持があったのではないかと思います。」

〔付 録〕(小冊子12頁) 室井光広「オッキリのように」(冒頭抄出)

          (「河岸砂丘」第6号2001年9月・奥会津作家協会発行に所収)
 著作家の看板を掲げて十年余りになるが、それ以前からの短からぬ歳月にわたり、私は独り同人誌をやっていた。といっても、本誌「河岸段丘」の主宰者角田伊一氏のような労苦を体験したのではなく、またいわゆる個人誌の発行者だったわけでもない。
 要するに、発表を意図せぬ多ジャンルの文を非在の同人誌にせっせと書きつづけていただけのことである。 
 モノカキを志向するモノ心がついた時、私の中には幾人かの同人がいた。創作する男すなわち〝作男″が文芸ジャンルを代表する数ほどに増え、互いに対話してやまなかったのだ。
 創作畑は大きく韻文(詩・短歌・俳句)と散文(批評・小説)に分かれた。棟割長屋状の作男部屋を詩人・歌人・俳人・批評家・小説家が棲み分け、作業を競い合う年月が少なくとも十年はつづいただろう。独奏者が集まって即興的にジャズを演奏するジャム・セッションのような競演を愉しんだのだけれど、一方でジャンル間の安易な越境を批判的に視る作男も私の中にはいた。
 膨大な詩歌句の五分の一、いや十分の一ほどを幾年もかけて精選し、私家版の韻文集『漆の歴史――The history of japan』をまとめた時点で、作男は〈うたのわかれ〉を宣言した。しかしもちろん「原詩=ウルシ」掻き仕事でしぼり集めたモノをひっさげて散文の畑へ身を投じた後も、散文VS韻文の間の溝を凝視する対話的思考はつづいた。
 散文畑での耕作においてはフィクションVSノンフィクションというもう一つの縁(エン・ヘリ・エニシ・ユカリ・ヨスガ・フチ)をめぐる対話がよりいっそう複雑多様なものとなって、現在に至っている。

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