句集 ひとり

句集 ひとり

四六判上製/地券装
発行日:2017/5/15
本文134ページ
装画・カット=尾形光琳
装丁=高林昭太
定価:2000円+税
ISBN978-4-88032-439-5

瀬戸内 寂聴著

瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)プロフィール

1922(大正11)年5月15日、徳島市生れ。旧名・晴美。作家・僧侶。東京女子大学卒業。1957(昭和32)年、「女子大生・曲愛玲(チュイアイリン)」で新潮社同人雑誌賞受賞。1961年、『田村俊子』で第1回田村俊子賞、1963年、『夏の終り』で第2回女流文学賞を受賞。
作家としての地位を確立し、幅広い文学活動ののち、1973年11月14日、平泉中尊寺で得度受戒。法名・寂聴。翌年、京都嵯峨野に寂庵を結ぶ。1987年より2005年まで岩手県天台寺住職を務める。
旺盛な創作活動を続け、1992年(平成4)年、『花に問え』で谷崎潤一郎賞、1996年、『白道』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。1997年、文化功労者。1998年、『源氏物語』現代語訳全10巻完結。2001年、『場所』で野間文芸賞、2006年、国際ノニーノ賞(イタリア)を受賞。同年、文化勲章受章。2011年、『風景』で泉鏡花賞。
主要著書に、『かの子撩乱』『美は乱調にあり』『青鞜』『諧調は偽りなり』『京まんだら』『比叡』『秘花』『奇縁まんだら』『死に支度』『わかれ』『求愛』などがある。

オビ(表)

突如、「句集」という字が浮んだ。 (本書「あとがき」より」)
自らの孤独を見つめ 明滅するいのちの不思議に
こころを震わせる待望の第一句集

オビ(裏)

「……生ぜしもひとりなり、死するも独なり、されば人と共に住するも独なり、そひはつべき人なき故なり」という一遍の言葉が、人間の孤独の本性をすべて言い表わしていると思った。「おのづからあひあふときもわかれてもひとりはいつもひとりなりけり」という一遍の歌は、私の護符であった。ふりかえってみれば、私の書いてきたものは、はからずも、一遍のこの言葉やこの歌のこころを、ただ追い需め、なぞっていたのではあるまいか。
                (『瀬戸内寂聴全集 第十七巻』 解説より引用)
 生ぜしも死するもひとり柚子湯かな
 天地にいのちはひとつ灌仏会
 仮の世の修羅書きすすむ霜夜かな
 おもひ出せぬ夢もどかしく蕗(ふき)の薹(たう)
 星ほどの小さき椿に囁かれ
 落飾ののち茫茫と雛飾る
 御山のひとりに深き花の闇

目次(俳句+エッセイ7篇)

〈俳 句〉
  ひとり
〈エッセイ〉
  露の身と逝きし人
  侘助の人
  知らぬ月日
  おはんさんの花供養
  あの人が・江國滋
  可愛い怪物
  雪清浄

あとがき

  俳句と関係ができたのは、一九六一年(昭和三六)、初めての文芸書として『田村俊子』が、「文藝春秋社」から出版された時からであった。その原稿に誰よりも早く目をつけ、同人雑誌に書き終わるなり、出版してくれたのは、当時、文藝春秋社の出版部長だった車谷弘氏であった。その本の装丁まで御自身でして下さるほどの気の入れようだった。それ以来、車谷さんは私の文学的成長を見つづけて下さった。車谷さんが「侘助」という俳名で、俳句の作者であることも、その時知った。
 車谷さんはまた、当時、女流文学者の第一人者であった円地文子さんの、御贔屓でもあった。その頃、円地さんは源氏物語の現代語訳に着手されていて、その仕事場として、当時私が暮らしていた目白台のアパートに一部屋を借り、月曜日から金曜日まで、そこで仕事をされていた。部屋には簡単な炊事の出来る設備はあったが、円地さんも私も自炊など苦手で、たいてい、てんや物でごまかし、気が向けば二人で町へ出て食べ歩くような暮らしだった。
 その二人を、ある時、車谷さんが誘いだし、俳句の会につれだした。宗匠は気難しいことで有名な永井龍男氏であった。出席者は、文壇、俳壇の有名な人たちばかりであった。
 永井宗匠が、じろりと私たちを見て、
「へえ、変った人物が来たもんだね」
 とつぶやき、行儀よく膝を揃えている出席者たちに、
「紹介するまでもないでしょう。あ、若い方は最近、田村俊子を書いた瀬戸内晴美さん」  と伝えてくれた。
 円地さんも私もその場で、俳句を作らされた。集めた句を永井宗匠が片っ端から批評して、最高句を選びあげ、その人には何やら紙に包まれた大きな褒美をあげていた。
 最後に、円地さんと私には出席したしるしだと、トイレットペーパーを一巻づつくれた。
 その後の食事が思いがけなく美味しかった。そこは銀座一丁目の「田村」で美味で有名な料亭だった。私たち二人は、その美味だけにつられて、その後毎月、句会に出るようになった。いつも高点をとって、宗匠からほめられるのが、中里恒子さんと網野菊さんの二人だった。
 網野さんの、
 ひとり居の冬の支度や石蕗の花
 という句を、今でも覚えている。
 一番下手だった人と、次の下手には、トイレットペーパーを一巻くれる。その貰い手が毎回、私と円地さんだった。円地さんを下手の二番目にするため、私はいつも下手の一番目にならなければならない。これもなかなか難しい芸であった。私たちは毎回トイレットペーパーをかかえて帰りながら、それでもまた次の月も出かけてゆくのである。ひとえに「田村」のご馳走の魅力にひかれてであった。
 永井宗匠は、いつも私たちに冷たかったが、ある日、
「円地さんや瀬戸内くんのように、小説が売れている作家には、いい俳句は生れないんだ」
 と断言された。さすがに円地さんは怒って、それきりその句会はやめてしまった。もちろん私も喜んで円地さんに従った。
 それでも車谷さんは私たちにやさしさをつづけて下さった。
「俳句をやりなさい。小説の文章が引きしまる。それに、短篇は題に困らないよ」
 と教えてくれた。それ以来、短篇の題にはしきりに俳句の季語を使ったが、作句はしなかった。「週刊新潮」に初めて「女徳」という小説を連載した時の係りが、江國滋さんだった。今、女性作家として活躍めざましい江國香織さんは、滋さんの長女である。滋さんは多芸で、絵も描けば、エッセイもうまく、トランプ占いが素人の域を超えていた。その中で最も力をいれているのが俳句だった。
 私は車谷さんに弟子入を頼んだが、五、六句見ただけで、小説の方がいいと笑って、それきり見てくれなかった。江國さんには、束脩も収めたが、それは受取っただけで、一度も俳句は見てくれなかった。二人とも私に俳句の才能はないと思われたのだろう。

 それが突然、俳句を作りはじめたのは、黒田杏子さんとの縁ができてからだった。杏子さんが、京都・嵯峨野のわが寂庵へ初めて訪ねて見えたのは二十八年ほど前で、私は六十七、八歳だった。
 東京女子大の後輩だと名乗った杏子さんは、おかっぱに大塚末子の作務衣スタイルが個性的で、一目で覚えてしまう強い印象を持っていた。広告会社の博報堂に勤めていると話したが、仕事で来た様子でもなかった。それ以来、ふっと風のように訪れるが、女子大の想い出話や、作家の噂話をしてさっと帰って行く。一年ほど経って初めて女子大時代から俳句を作っていて博報堂の有能な社員として重宝されながら、傍ら俳句をつづけているが、そろそろ自分は結社を造りたいと言いだした。私は即座に賛成して、先ず座が必要だろうから、寂庵を使ったらとすすめ、話はとんとんまとまって、人を集めることになった。句会の名はあんず句会がいいと決まった。第一回のために私まで夢中になり人集めに努めた。声をかけたら厭とはいわない編集者や、寂庵へ写経にくる連中や、祇園の女将や芸妓や舞妓まで集めた。有名な京料理店の御隠居もその孫の女子大生もいた。お寺の隠居法師も焼物屋の息子もいた。六十人余りで、二月堂を並べると、お堂がいっぱいになった。
 こうして始まったあんず句会は月一回の会毎に、人が集まり、人が去り、本気で句を作ろうとする人々が残って、全国から通う人も多くなった。その場で句を作り、杏子さんが目の前で見て添削し批評する。私も座の片すみに毎回出席して句を作った。中には他の句会で何年も作ってきた人までいた。杏子さんの批評は公平さが際だっていた。遠くから来たとか、病人を置いて来たとか、個人的な事情は一切関係なく純粋に句だけを批評した。杏子さんはすぐに句誌を作り、名前は「藍生」とした。その表紙の題字を私の親しい榊莫山氏に依頼してほしいという。私は杏子さんが直接お願いにゆけば、必ず書いて下さると言い、杏子さんが一人で出かけた。私の予言通り、即、引き受けてくれた。莫山氏が亡くなられた今、その題字はいっそうの値打ちに輝いている。
 寂庵での月一回の句会にも全国から人が集まってくる。私も毎回出て、杏子さんに句を直して貰うのが愉しみになってきた。寂庵へお詣りにくる常連も、藍生の同人になり、毎月句会へ集まる。そのうち私は仕事の忙しさで続かなくなったが、寂庵同人たちは、ずっと続いていた。何年かたつと、どの人も別人のように句が上達している。私はとても追いつけなくなっていた。続けるという意味の大切さとその効果を、彼等の句で教えられた。その感動の余り、自分の下手さが恥かしくなって、私は欠席句さえ出せなくなってしまった。あんず句会は、寂庵から二、三、場所を移したが、今では全国に支部があり、会員は数千人を超えている。「藍生」はこの秋、創刊二十七年になるそうだ。杏子さんの力業だと感動する。
 私は九十二歳を越えてから、さすがに老衰が日にすすみ、脊髄圧迫骨折をはじめとし、胆嚢癌やら、血管狭窄やらで、胆囊を取ったり、心臓の手術をしたり、入退院をくりかえすようになり、今日五月十五日で九十五歳になってしまった。まだこの年でも書く仕事は続けているが、連載小説は休みがちになってきた。退院しても横になっていることが多く、いつの間にか鬱状態になっている。はっとそれに気がついた時、死ぬ時はペンを握って机にうっ伏したまま、死にたいと思った。それには自分の余命を愉しくしなければ……その愉しみは何があるだろうと思いめぐらす頭の中に、突如、「句集」という字が浮んだ。ほんの少ししかない自句を集めて、齋藤愼爾さんに句集を作って貰おう、そう想っただけで胸が熱く浮き浮きしてきた。死んだ時、ごく親しい人だけに見てもらえればいい。
 百年近い生涯、こうして私は苦しいときや辛い時、自分を慰める愉しいことを見いだしては、自分を慰め生き抜いてきた。
 句集の題は「ひとり」。
 一遍上人の好きな言葉があった。
   生ぜしもひとりなり
   死するもひとりなり
   されば人とともに住すれども
   ひとりなり
   添いはつべき人
   なきゆえなり

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