句集 剥製師
四六判上製カバー装
発行日:2019/9/17
本文144頁
装丁:高林昭太
定価:2500円+税
ISBN978-4-88032-455-5
高岡 修著
高岡 修(たかおか・おさむ)プロフィール
1948年、愛媛県宇和島市生れ。1962年、鹿児島市に移住。
十代の頃より詩・俳句・小説を書き始める。南日本文学賞・土井晩翠賞・現代俳句評論賞・現代俳句協会賞などを受賞。
現代俳句協会会員・日本現代詩人会会員・日本詩人クラブ会員・日本文藝家協会会員・俳誌「形象」主幹・詩誌「歴程」同人。
詩集に『犀』など18冊、および『高岡修詩集』(思潮社版現代詩文庫)、『高岡修全詩集』。
句集に『水の蝶』など6冊、および『高岡修句集』(ふらんす堂版現代俳句文庫)ほかがある。
オビ(表)
実存俳句の極北
〈原爆〉と〈東日本大震災〉は、私たちにとって実存にかかわる痛切な問題である。高岡俳句の〈白虹の綳帯で巻く原爆ドーム〉や〈みちのくに指紋まみれの空がある〉などは、『史記』に出てくる「白虹、日を貫けり」の奇蹟的出現といえないか。
ここには苛酷な時代状況を 踏まえ、自己の存在責任と歴史における主体性を問いつつ、それを独自の表現へと形象化する営為が見てとれる。高岡俳句が「現代思想の小舞台=言語宇宙」といわれる所以である。
オビ(裏)
世界に(あるいは全宇宙に)無数にある痛点を、
言葉の針によって刺し貫く、
その痛点の輝きが、
現在の俳句の喩空間である。――高岡 修(「形象」2019年5月号)
解剖台虹の死体を横たえて
夕空のかけらを火打ち石として
庭師来て空の端より剝ぎ始む
虫となりし我か狂いて火蛾である
あとがき
この三月末、あるきっかけから齋藤愼爾氏と痛飲した。勢いで私は句集の刊行を申し出た。まったく勢いとしか言いようのないなりゆきだったのだが、この句集は四年ぶりの私の第七句集である。四年ぶりだから、それなりに作品のストックがあるのだと、勝手に思いこんでいたのだ。
調べてみて驚いた。句集に載せるべき作品が二十句にも満たなかった。どれもが、これまでの自分の作品の自己模倣で、まったく進化と深化が見られない。
約束は約束である。新たに作るしかない。しかし、それは、これまでの私の詩集の作り方でもあった。
私は十八冊の詩集を刊行しているが、第一詩集以外は全て書き下ろしである。早いものでは二日で、長くても一ヶ月半ほどで一冊分の詩を書き上げた。そうしなければ日常生活が破綻しかねないという心的な状況もあったわけだが、良くも悪くも、それは私の詩集の作り方だった。
結果的に私は一ヶ月半で二百句ほどを書き上げた。それほどの数だからテーマの持ちようもないはずだ。ところが、かなりの数の作品が二つの事象に収斂されてゆくのが分かった。二つの事象、原爆と東日本大震災である。
原爆は私の師・岩尾美義の生涯のテーマでもあった。十代の頃から岩尾師に心酔していた私もまた、原爆というひとつの地獄を、私の内界深く沈めることとなった。原爆はまさに人災の極限だが、3・11以降、原爆にあの巨大な天災も加わった。そういった意味では、この句集も、前回の句集『水の蝶』の延長上にあるといっていい。
(後略)
書評から
『剥製師』評
深代 響/「鬣(たてがみ)」2020年2月号(抜粋)
作者第七句集。全体は次の六章により構成されている。「現象の地平」「水棺」「死のゲノム」「流刑」[海鳴りの海図]「剥製師」。帯に「世界に(あるいは全宇宙に)無数にある痛点を、言葉の針によって刺し貫く。その痛点の輝きが、現代俳句の喩空間である。」(『形象』二〇一九年五月号より)とある。
また今回の句集について「かなりの数の作品が二つの事象に収斂していくのが分かった。二つの事象、原爆と東日本大震災である。(中略)原爆はまさに人災の極限だが、3・11以降、原爆にあの巨大な天災も加わった。そういった意味では、この句集も、前回の句集「水の蝶」の延長線上にあるといっていい。」(「あとがき」)と述べる。もちろんこの「針」は同時に自己を貫くものであり、また「巨大な天災」は一方で「文明災」(梅原猛)でもあることは確認しておきたいが、昨今の巧妙な忘却への、あるいは露骨な逆行への種々の詐術を思えば、この表現の継続は極めて重要である。それは自己と世界と歴史を問い続けることにほかならない。
みちのくに指紋まみれの空がある 「水棺」
水すまし日は水葬をくり返す
蟻穴へ引く蟻の眼の原子雲 「死のゲノム」
キノコ雲の菌糸びっしり国家論
これらの鮮明な結像力による鋭い批評性は著者のコンセプトを見事に具現化しているだろう。