句集 水 想

四六判/上製/本文220頁
装丁=高林昭太
発行日:2012/11/15
定価:2500円+税
ISBN978-4-88032-404-3

清水喜美子著

清水喜美子(しみず・きみこ)プロフィール

大正12年1月2日栃木県に生れる。 昭和63年「海程」入会、金子兜太に師事。 平成7年、第12回「海程」例会三賞新人賞受賞、同人に推挙される。 平成24年「海程」および「現代俳句協会」退会。
著書に、句文集『未黒の大地』、第1句集『風音』(深夜叢書社)。

オビ

狷介と孤高―末黒野(すぐろの)の巫女
清水喜美子さんは、90歳を寿いだ後も、少女のナイーブさを失わず、
聖なる不可視の大地に「非在の花」を摘む。
古い花鳥風月の対極に立つ美意識。
人間存在の根源に迫る烈々典雅、夢や幻視、絶対零度の流離感を孕む
稀有の俳句空間がここに出現した。

句集「水想」より(カバー裏のオビに掲句)

無明世界雪の底なるひとりかな
枯葦原しずかに地球廻るかな
末黒野や遠くの水の光りおり
蝶の翅とらえてみれば煙りおり
仏壇の裏へ螢がひそむかな
梅雨の夜の白みて他界に身を入れる
月光がこころつらぬき掌に還る
芒原で思う真昼の深さかな
梟にうつし世の闇及びたり
魂は生きてふた世をつなぐ雪

栞より (清水喜美子第1句集『風音』の序文・跋文に掲句。抜粋)

金子兜太(『風音』序文より)
 夜がそこにきて生きもののように月
 人日や水脈の及べる島を見る
寺井谷子(『風音』序文より)
 次の世もわが母である雪降りしきる
 淡きははなり白地着て母在り
 はさみ会う母の白骨花八ッ手
 百日紅の百を信じてシャワー全開
 月光にぶつかりぶつかり越後かな
 雪女郎たかが生物ではないか
 田中亜美(『風音』抜文より)
 牡蠣棚をみしりみしりと夜が行く
 夜がそこにきて生きもののように月
 末黒野や清浄な音組むごとし
 うから欠け旅中に末黒野となれり
 甕のかたちに水おさまりて末黒野
 花の谿白き本流のごと加齢
齋藤愼爾(『風音』編集覚書より)
 黄泉平坂桃の籬にくるいなし
 現し身を真っ白にして七草粥
 二百十日わが骨格のしろじろと
 水草生うおもいでは足組むところ
 関東平野雪嶺へ身を反らす

「選評七句」(選者・齋藤愼爾、「栞」に掲載)
雪襖見つめて幼児に戻る影
評……積雪で道路は襖を並べた景になる。雪襖の奥へ奥へと歩く。いつしか雪達磨やかまくらを造った幼児の世界へ本卦還りしている自分に気付く。〈夜の咳は夜を深くする他郷〉も秀逸。
冬櫻一瞬日輪走りみゆ
評……ル・クレジオの長編『大洪水』の主人公は、自意識の地獄から脱れるために、太陽を凝視し続け、両眼を焼き尽くす。それに至る過程を神話を思わせる象徴性をもって描く。作者は日輪が疾走するのを見る。冬櫻が演出した白昼の幻想劇か。
雪晴れて跡形もなき黒髪
評……雪が降りやんだ翌朝の白一色に輝く世界。「俗世の雑音をことごとく消し去って無垢の天地を現ずる」というのが飯田龍太の雪晴観。黒髪は少女期・乙女時代の象徴だろう、「跡形もなき」に在りし日々が過ぎ去ったという痛恨。
木の葉舞う純粋に木の実降る
評……他の選者なら別の一句〈越後路は半日にして稲架襖〉を選ぶかもしれない。確かに越後平野の豊穣な実りの季節を捉えて見事だ。しかし掲句の方が斬新で、深い。「純粋」なんて言葉を用いれば普通一句は破綻する。だがここでは揺るがない。真っ直ぐに純粋に生きている作者さえ彷彿させる。実が垂直に落下する所以である。
青葉木菟幻の世を還り来よ
評……宵に鳴きだす青葉木菟。何かを啓示しているようだ。橋本多佳子にはその声が「夫(つま)恋へば吾に死ねよと青葉木菟」と聞こえた。木菟は彼岸に棲む鳥のようだ。「幻世」ばかりに隠棲せず、「現世」を翔け、自分を慰籍してほしいと作者は祈念するのだ。 散りいそぐさくらに鬼籍の人通る
評……「桜の樹の下には屍体が埋まってゐる!」と言ったのは梶井基次郎。満開の桜の下にはこの世のものとも思われぬ冷たい風が吹いている、と坂口安吾。花見の季節は死者も現世に舞い戻り、花見客の一人になって花を愛でている。
残り世は蚊帳吊草を愛でるかな
評……晩年の心境の表白である。季語の蚊帳吊草が効果的だ。茎を裂いてひろげると蚊帳を吊った形になる一年草。蚊帳は父や母、家族の思い出につながる。懐かしくも涙ぐましくも思える蚊帳吊草を愛でて余生を過ごしたいと祈念する。

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