文学的視線の構図
四六判/上製/本文478頁
装丁=高林昭太
発行日:2011/5/19
定価:3500円+税
ISBN978-4-88032-310-7
梶木剛遺稿集 単行本未収録評論集1
梶木剛(かじき・ごう)プロフィール
文芸評論家。本名、佐藤春夫。1937年5月、新潟市生まれ。1957年、新潟県立新津高等学校卒業、法政大学文学部日本文学科入学。在学中に吉本隆明と出会い、雑誌「試行」に文学評論を発表、以降常連執筆者となる。1962年より千葉県の県立高校に教諭として勤務。1998年に退職後は、弘前学院大学教授、法政大学大学院講師なども務めた。
2010年5月、食道癌による敗血症のため死去。享年73。
主な著書に『古代詩の論理』『斎藤茂吉』『思想的査証』『存在への征旅』『夏目漱石論』『宿命の暗渠』『長塚節』『折口信夫の世界』『柳田國男の思想』『正岡子規』『抒情の行程』『子規の像、茂吉の影』『写生の文学』などがある。
追悼文より(抜粋)
吉本隆明 (詩人・評論家)
彼が文章家として固執し目をそそいでやまなかったのは、正岡子規をはじめ近代日本の正
統派リアリズムの詩人と散文作家だった。地味で正確なその解明と掘り下げ方は稀有なも
のだった。
心ある読者は〈形のない難所〉を悠然と歩いていく彼の姿勢をかなたにしながら、どれだ
けふで運びのモデルとしたかはかりしれない。
梶木剛は平仮名「あいうえお」五十音の一文字、一文字が日本列島の散文文学のふるさとであることをよく知っている文学者であった。
梶木剛の魂よ、安らかなれ。
秋葉四郎 (歌人)
あなたのような評論が、今後歌壇に無くなることを思うと、一歌人として、冬枯れの荒野に立たされた思いでいっぱいであります。
立石 伯 (文芸評論家)
「思想的査証」「存在への征旅」「宿命の暗渠」など、その命名だけで考察の方向と思考の実質が暗示される類の明快なものでした。
脇地 炯 (評論家)
意志的で、剛直なところのある人でしたが、私にとってはむしろ、どんなに否定的な心的状況に落ち込んだとしても必ず肯定的に受け止めてくれる、といった安心感のある優しい存在でした。
月村敏行 (文芸評論家)
あるときから、日本はバブルの絶頂を経過したと言われるようになるが、思想、評論も例外ではなく、思想のバブル、評論のバブルもあったので、この潮流に渾身で応じたのも梶木であった。それは全集博読、文献渉猟の徹底性をもってやり抜かれた。
目次
Ⅰ 文学に関する断片
文学に関する断片
陸羯南という存在
柳田学と折口学
Ⅱ 斎藤茂吉紀行
斎藤茂吉雑談
『あらたま』の輝き
藤岡武雄『書簡にみる斎藤茂吉』
土屋文明一面
西方国雄黄金風景
Ⅲ 正岡子規紀行
子規雑事手控
黒澤勉『子規の書簡』
正岡子規『かくれみの』一見
Ⅳ 夏目漱石紀行
狂気・漱石
神山睦美『夏目漱石論-序説』
相原和邦『漱石文学の研究-表現を軸として』
柄谷行人『漱石論集成』
夏目漱石・昭和戦後
Ⅴ 柳田國男紀行
思想としての柳田國男
柳田國男民俗学以前
民俗学、文書学から実験学
赤坂憲雄『遠野/物語考』
赤坂憲雄『漂白の精神史 柳田國男の発生』
祭り・共同祈願・共食
Ⅵ 断章
秋の花火の物語 芥川龍之介「舞踏会」考
横光利一望見
太宰治文芸の基調-母恋い
吉本隆明一望
その頃、単独に充実して
内側の視線の構図-吉本隆明『柳田國男論』読後
年譜(佐藤満洲子)
哀辞-梶木剛の王道 月村敏行
告別式の記録(弔辞) 吉本隆明/秋葉四郎/脇地炯/立石伯
書評より(「東京新聞」2011年6月29日号)
梶木剛のこと 月村敏行(文芸評論家)
梶木剛が死んで一年経ち、五百頁近い遺稿集『文学的視線の構図』が出た。殆どがインターネット社会に衣替えしている現在、いわば活字文化の精を励ますような立派な本である。帯には「没後一周年哀悼出版」とあって、出版元の深夜叢書社の意気込みが知れる。
ただし梶木剛がどんな仕事をしたか、余り知られていないだろう。まず吉本隆明の最大の同行者であったと言ってみたいが、説明が一層必要になってこよう。要するに、吉本が主宰していた、いわゆる自立誌『試行』の最初から最後までの投稿執筆者で、殆ど出ずっ張りであった。『試行』は一九六一年九月創刊で九七年十二月終刊となり、七十四号までも続いたのだから梶木が文芸評論家として自己確立したのも、この『試行』においてである。
その最初の仕事は『古代詩の論理』という初期万葉集だが、続けて夏目漱石論、横光利一論、折口信夫論、柳田国男論と全ては長大なまでに書き続けられた。
しかし、梶木の仕事はこれだけではない。中学生時代から佐藤佐太郎の新潟アララギ会員だったから、その短歌理解は歌人の作歌現場を見据えた奥の深いものであった。こうして正岡子規、斎藤茂吉、伊藤左千夫、長塚節などのアララギ系歌人論が書かれ、その「写生」の意味が問われることになる。
その際、すごかったのは、この歌人論の仕事を『試行』に書き続けられた漱石論から柳田論までの仕事に合体、総合させたことである。それは日本における内的近代の系譜を「写生」を軸においてはっきりさせる結果となった。即ち、子規が、いわば前近代として擬古文にどっぷり漬かっていた状態を打破するために発した「写生文」という一語、それにもましてその自然なまでの実践である『墨汁一滴』『病床六尺』『仰臥漫録』の三篇こそは日本近代を内的に支える文章の根底となった、というのである。
それは漱石を触発し、目覚めさせ、芥川龍之介に受け継がれ、志賀直哉とその文章を産みだすことになった。柳田『遠野物語』も「写生」という一語に触発され初めて成立したと梶木は調べあげた。要するに、日本近代の内的行程は「写生」の一語なくしては不可能であったと喝破したのである。