文学的思考の振幅

四六判/上製/本文368頁
装丁=高林昭太
発行日:2012/8/20
定価:3000円+税
ISBN978-4-88032-402-9

梶木剛 単行本未収録評論集2

梶木剛(かじき・ごう)プロフィール

文芸評論家。本名、佐藤春夫。1937年5月、新潟市生まれ。1957年、新潟県立新津高等学校卒業、法政大学文学部日本文学科入学。在学中に吉本隆明と出会い、雑誌「試行」に文学評論を発表、以降常連執筆者となる。1962年より千葉県の県立高校に教諭として勤務。1998年に退職後は、弘前学院大学教授、法政大学大学院講師なども務めた。 2010年5月、食道癌による敗血症のため死去。享年73。
主な著書に『古代詩の論理』『斎藤茂吉』『思想的査証』『存在への征旅』『夏目漱石論』『宿命の暗渠』『長塚節』『折口信夫の世界』『柳田國男の思想』『正岡子規』『抒情の行程』『子規の像、茂吉の影』『写生の文学』などがある。

オビ

〈照葉樹林〉を求めて
柳田國男、折口信夫への深い造詣、
日本近代文学への鋭利な洞察を膂力として、
その視野は〈照葉樹林〉から〈女性論〉にまで及ぶ。
「爽快な巨視性」(月村敏行)に支えられた
畢生の力作評論。

目次

I
 衝撃、照葉樹林の発見
 東北の照葉樹
 照葉樹小話四題
  照葉樹、その林
  照葉樹行脚
  照葉樹行脚続
  北の椨(たぶのき)
 東北四景 柳田國男の選びから

 自然主義私見 『蒲団』『家』『黴』
 批評の動き・昭和十年代
 狭隘で、偏頗で、不自由で 転向論にかんするメモ
 女性論瞥見
 現代作家の性表現 吉行淳之介『夕暮まで』にそって
 女性存在について ボイテンディク『女性』私抄
 個体信仰の逆説
 性差から

 緑の年の歌 青春の力
 老いに励む、歌
 土屋文明「越の少女」私注 深井清子一斑
 父の不在の現在
 「純粋な生活」の背理
 家という媒介
 アジアの稲の話
 寒椿の鳥
 困った記述
 道着も持たずに二十三年
 葛城の丘十五年

 井上良雄五題  井上良雄/仲町貞子/「磁場」/「詩と散文」/井上良雄
 文芸評論家二題  月村敏行/宮内豊
 柳田國男八題  柳田國男/妹の力/海南小記/遠野物語/野辺のゆきゝ/明治大正史世相篇/桃太郎の誕生/雪国の春
 鶴見俊輔三題  鶴見俊輔/限界芸術論/共同研究転向
 日沼倫太郎二題  日沼倫太郎/文学の転換
 折口信夫八題 語部/天皇/呪言・呪詞/西村亨編『折口信夫事典』/松浦寿輝『折口信夫論』/中村生雄『折口信夫の戦後天皇論』/生きロを問ふ女/家へ来る女 小説にあらず
[解説]
 母子家庭育ちのことなど 爽快な巨視性 月村敏行
 梶木に代って 佐藤満洲子

解説より(抜粋)

母子家庭育ちのことなど――爽快な巨視性 月村敏行(文芸評論家)
(冒頭略)
 北川(透)、菅谷(規矩雄)は詩を書き続けたから文学上の著作という基本ははずれないが、梶木の場合、文学論は元より、柳田国男、折口信夫を視野に入れ、稲作文化やタブの木の日本原植生論を含めた照葉樹林帯にまで考えを届かせている。本当に巨視的だという外はない。受身のままに受容は自由で豊かで、広いという母子家庭育ちの感性の本質的顕現だ、と言ってみたい気がする。本書に収められたのではっきりするが、女性論、母性論、性愛論も書かれていて爽快の気が漂うのは母子家庭育ちの生涯の思いが噴出しているからである。父親の生きている家庭に育てば、こうまで一本気の女性論その他が出現するかどうか。
 (中略)
 多分、梶木は母子家庭育ちに加えるに吉本(隆明)さんと同じタイプだったと言ってよいだろう。吉本さんの家で吉本さんと初めて会ってたちまち「運命共同体」を感じた所以でもあろう。こういう梶木にして本書の爽快な巨視性が実現されることになったのである。
 (後略)

書評より(「図書新聞」2013年1月12日号、抜粋)

壮大な思考の旅 皆川勤(評論家)
(冒頭略)
 『振幅』の巻頭に配置された諸論稿は、「照葉樹林」をめぐってのものである。あまり知られていない「照葉樹林」に、梶木が着目したのは、66年頃であったと「衝撃、照葉樹林の発見」(絶筆-「息を引き取る数時間前まで病床で口述筆記」されたもの)で述べている。それは、中尾佐助の『栽培植物と農耕の起源』で提起されたことが、契機であったとする。そして梶木は、「照葉樹林」を、「日本では、樺、椎、犬樟(椨)などを総称する言葉という。初めて聞いたが、何だかとっても尊い感じの言葉だ」と記していく。この、「何だかとっても尊い感じの言葉だ」という梶木の感性こそが、思考の方位をかたちづくっていく原初の力なのである。つまり、「照葉樹林」が、「東アジア独特の森林」であり、「その地帯に存在する農耕文化複合」という視線をさし入れることによって、わが列島へと拡張させていく思考の展開が、大胆になされていくのだ。「東北の照葉樹」という論稿では、さらに、柳田國男と折口信夫を援用・連結させて、思考の旅が描出されていく。
 (中略)
 東南アジアの熱帯地域から、わが列島の東北へと注がれる照葉樹林という視角は、柳田の『海上の道』を想起させながら、生命形態の連繋を歴史的時間のなかに包摂して、雄大なイメージを、わたしに与えてくれたといっていい。それはまた、梶木も称揚する「吉本隆明が導き出した」、「アジア的」という「命題」にも連結していくことにもなるのだ。
 「〈アジア的〉専制というのは廃棄されるべき弱点でしかないのかというと決してそうではなく、そこでの共同体のあり方のなかには『相互扶助共生感情、相互の親和感』が豊かにあり、人類永遠の〈理想〉ともいえる面が確かにある、だから困難なのだ、問題は、と(「世界史のなかのアジア」)。」(「アジア的、実感、まれびと」-『光彩』所載)
 神木というものは、つまり、共同性、共同体における感性の象徴と見做すことができる。要するに、それは、「共生感情」や、「相互の親和感」に表象されていくものだからだ。飛躍を承知で述べるならば、わたしは、椿や椨という照葉樹をめぐる共同性の問題として、梶木は構想していたのではないかと、いいたいと思う。
 (中略)
 照葉樹林文化から、共同的感性の在り処への析出、そう考えれば、これらの論稿は、壮大な思考の旅をかたちづくっているといっていいはずだ。 (後略)

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