随感録  現実の感受法と熟視のために

随感録

新書判・並製カバー装
本文206頁
装丁=高林昭太
発行日 2017年10月30日
定価:1800円+税
ISBN978-4-88032-441-8

立石 伯著

立石伯(たていし・はく)プロフィール

文芸評論家・作家。
1941年8月、鳥取県生まれ。法政大学大学院博士課程修了。元・法政大学文学部教授。
著書=作家論・作品論に、『埴谷雄高の世界』『石川淳論』『ドストエフスキィの〈世界意識〉』等、小説に『潮風』「西行桜外伝」『玉かづら』等がある。
最新著書は小社同時刊行『『死靈』の生成と変容 埴谷雄高のヴィジョンと無限の自由』。

オビ

石川啄木、永井荷風、森 鷗外、大岡昇平、埴谷雄高、武田泰淳、石川 淳、ドストエフスキィ――文学者たちの残した卓抜な予見が示唆するものはなにか。2010年代日本の危機的右傾化への警鐘。

目次

その一 「テロリズム」について
その二 戦後派文学者の卓抜な予見性
その三 九月の《変革なき変革》
その四 子供の貧困、虐待、凌辱、死――現代的不安と危機について
その五 権力について
付 録 文学の力について――文学は何をなし得るか

「あとがき」に代えて(抜粋)

 本書の随感録は個人雑誌「星雲」に連載した文章である。「星雲」の「創刊にあたって」という小欄でつぎのように感じたままに書くことの意味を記した。「文字通り日常の出来事に対する感想、ある事柄の奥にひそんでいる隠された意図や疑問、懐疑、批判などをふくめて、どのような対象であれ随意に書きとめておきたいとおもっている」。「刻下の現実のこと、夢想、妄念なども書き連ねられるであろう」とも書きとめた。けれども、広範な対象を深くよみとることによって奥深くに隠されたものなどを尖鋭なかたちで表面化しつつ書きすすめることができなかった。このような形式での文章はさまざまな人が書いているが、どのような発見・発明がそのなかにあるかが問われることになるであろう。いわば、さまざまな対象を見たり感じたりする角度や書き方が重要である。新鮮で思いがけない局面が明らかになったり、闇に隠されたものに日があてられるということが大切だということにもなろう。
 ところで、これまでほんの僅かしか随感の文章を書いてこなかったが、なぜか。
 基本的には、現在の文学作品に違和感をいだいていることが原因となっている。小説などの言葉遣い、文体、テーマ、構成、想像力のはたらかせ方などについて共感できるものが少ないのである。また我慢して批判的に読んでも、その批判自体を書く過程が楽しい作品などがなかなか見あたらない。手にとって読みすすめてみようとしても、どうしても、読みすすめない。無理して読んでみても、時間を浪費している感じが強く、もったいないという思いがつよく働くのである。そのため、自分の親しんできた諸作品に眼がうつり、充実した読書体験が可能な書物を選んでしまうのである。日本や外国の小説や評論、哲学書などを読むことは楽しみだとしても、それについて書くのは、あるいは随感として書きとめておくということになれば、それほど相応しくないように感じられる。わたしの弛緩した感受性を目覚ませてくれるようなすぐれた文章になんとか出会いたいものだと望んでいるのであるが、近年、そういう体験が稀薄なのである。
 さらに悪いことがある。それは社会的、政治的な事象にかんすることである。二〇一五年から一六年にかけての世相を振りかえってみるに、それ以前の数年間のいかがわしい動きをうけて、権力者の側においてあまりにも無法な動きが頻発しているからである。権力とは本来からして無法で抑圧的なものだといってしまえば、話がつづかない。ともあれ、これらについて愚劣、醜悪、二枚舌、詐欺的言葉のいいかえ遊びなどにはじまり、じつにおおくの批判的な罵詈雑言がつぎつぎと思いうかび、あとにつらなってくるのである。それらについて率直に書いたりするのが腹立たしい。また、そういう愚劣なことを対象にして書くとなると、誌面がもったいないのである。そのために、書く前に、まずただひと言、こんな輩なぞとは同じ空気を吸いたくない、「天に向かって唾す」輩の害を受けたくはないという単純な嫌悪にみちた感想でおわってしまうからである。
 ともかく、書くのも莫迦らしいかぎりの悪辣な法律や出来事がつづいている。例をあげるまでもなく、特定秘密保護法、それに関連した貴重な記録や資料などの廃棄、安全保障関連法による集団的自衛権の容認、海外派兵の合法化、大量破壊兵器の貯蔵の可能性、原子力発電所の再開、また原子力発電の海外への技術輸出、武器輸出三原則の歪曲により外国への武器輸出・売りこみの合法化、マイナンバー制度、大学の研究費として軍事的利用の転換可能なものへの援助の拡大、したがって高等教育の経費の削減などあげはじめると枚挙にいとまがない。これは権力機構の変革、国家予算の配分の徹底的な見直しがなされなければ改善されることはあるまい。
 一七年現在ということならば、権力者とその取り巻きは人を寄せつけないよう腐臭に充ち満ちた言辞を弄しながら、何度も廃案になった共謀罪をテロ等準備罪とか組織犯罪処罰法とか名をかえて成立さすべく衆参両院で強行採決をくりかえしているのである。あまつさえ、プライバシー権と言論および表現の自由の保護に関する国際連合の特別報告者二人がそれぞれ個別に担当する案件についてきびしい警告を発している。一つはプライバシー保護の適切な仕組みの欠如、監視活動を事前に許可するための独立機関の設置が想定されていないことなどを指摘している。もう一つは、共謀罪と直接かかわらないが、言論と表現の自由にたいし、テレビ局などへの認可権などを振りかざして権力の独断による報道の萎縮をもたらすことがないこと、メディアにおける独立の深刻な脅威などにより表現や報道の自由などが阻害されることがないことなどを促している。このようなじつに封建的、独裁的、退嬰的な国家運営を暗に指摘しているのである。それに対して、権力者達は確信犯的に、また居丈高になって、笑うべきことに、逆に赤子が駄々をこねるごとく反論し、また国連に提出している法令等を尊重する旨の合意文書などを反故にするかのごとくの言いがかりを平気で喚き立てているのである。国連の当該理事会に報告され、日本の危機的状況が世界中に知れ渡るに相違ない。話柄が異なるが、天皇退位にかかわる問題、女性宮家、女系天皇の問題などについてもいい加減な対応に終始しているのである。天皇制とは何か、というむずかしい問題に論点がひろがることがない。歴史的にみても、憲法上からしてもおおきな問題にほかならないにもかかわらず、である。こうしたさまざまな点から「星雲」第二次Ⅳ号のために「権力について」という随感録・その五をかいたので、収録することにした。
 ところで、戦前の治安維持法の猛威や戦争遂行のための国連軽視などの胎動がうかがわれ、既視感のつよい愚昧で悪辣を通り越した出来事がつぎつぎにこの雨漏りのする薄汚い小屋では生起しつづけているのである。皮肉なことに常任理事国にはなりたいのである。権力を守るためならば、反対する者を徹底的に弾圧する法律を手妻のごとくひねりだしつづけるのである。卑近な例だが、沖縄で、米軍の飛行場をつくりなおすための辺野古湾の埋めたてに反対する人を微罪にもかかわらず長期間拘留、弾圧することなどに端的にその犯罪性はあらわれている。
 さて、わたしは大学在職中、役目としていくつかの新設学部設置の責任者の一人として対応したことがあった。遠くからであれ、獣医師を養成する獣医学部を申請している学校法人や関係者のあれこれのやり方を見聞きしていると、文科省もさることながら、権力者と権力を背景にした恥知らずな数々のやり口を繰りひろげている者たちにたいしても、開いた口がふさがらないというしかない。今のままではだれが聞いても、設置の必要な学部であることが了解されることなどまったくない。こんなことで、大学学部の設置が許可されるということなど、まず考えられないとすると、権力者の独断と自己保身のほかには思いつかない。
 さらにくわえて、この者たちは、憲法、とくにその九条の改定をすすめるために、新たに暗躍をくりかえしはじめているのである。なにをか言わんや、ということばかりが日々起こりつづけているのである。冷静に文章を書きすすめるということが、こういう次第でなかなかできにくい状況のなかに投げこまれているという状態にほかならない。書きつづければ、うんざりするほど悪罵にちかい言葉を羅列することになるしかあるまい。
 わたしは随感録その一で、テロリズムについて書いたおりに、フォークという人の「国家によるテロは非国家組織によるテロよりも市民にとって破壊的です」という考えを引用した。こういう独自な考え方を大事にしながらあたりを見回すと、国家によるテロリズムは、現在日本で生じている事態を鮮明にうつしだしているし、また外国のことでいえば、ロシア、中国、米国などでふるわれている手のこんだ一種の恐怖政治は、この警告をなぞるがごとく進行しているようにみなしうるはずである。

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